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2014年9月1日月曜日

New Managerialismとは何か

Managerialism - Wikipedia, the free encyclopedia
http://www.ilpc.org.uk/Portals/56/ilpc2010-paperupload/ILPC2010paper-10626.doc

やあ、みんな。New Public Managementに関連してNew Manegeriarismについて調べる必要が出てきたので、まとめてみたよ。パトリック·フィッツシモンズさんの論考が参考になったので、以下で紹介するね。



マネジリアリズムと教育

パトリック·フィッツシモンズ
オークランド大学

現代西洋社会の特徴の一つは、社会的、経済的、および政治的な問題をマネジメントを介して解決される問題として定義づける新自由主義的理念に支配される傾向である。新自由主義の下では、以前は政府と無関係とみなされていた領域 - すなわち自己決定(self constitution)においても効率化を促進することに政府が広汎な関心を持ち、文化に関する判断も経済に関する判断として再定義される。ここ数十年の間のこうした展開は、多くの西欧諸国再構築された公共部門におけるガバナンスの新たなモードとしてマネジリアリズムを導入することに関連している。 この構造改革は教育の改革を含んでおり、そこでは行政や政策の重視からマネジメントの重視への観点の大きな変化があった。マネジアリズムのこの形態はニュー·パブリック·マネジメント (NPM)として知られており、英国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドで、特に大きな影響を与えてきた。それは、国の教育関連官庁、教育機関、さらには公共政策のプロセスを再設計するための制度的な根拠としても手段としても使われてきた。

NPMの下では、個人の具体的な目標を設定するための客観的な基準と定量的な成果指標の精緻化、経済的な報酬と制裁の重視、説明責任の関係の再構築が行われる。それは、政府機関(エージェンシー)の管理において政府の裁量の余地の減少を促進し、財務管理しているエージェンシーとサービス供給者を分離し、さらには政府の監督、運用、規制機能を分離する。NPMは、発生主義会計、資本課税、国家による保有とサービス購買の区別を導入する。また、多くの場合、いわゆる自己管理の原則に従って経営管理の分権化が行われる。いわゆる生産(技術的)効率の観点からは、教育サービスの提供がコンテスタブルなものとされる。そして、いわゆる配分効率の観点からは、国の教育は市場化され、民営化される。

マネジリアリズムの解釈

NPMはマネジリアリズムの伝統に裏打ちされているが、これは資本主義の発展の中に位置づけることができる。歴史的には、資本家企業の所有はその経営機能(operational function)と分離されてきたのであり、そのことが組織内の専門的な経営階層を雇用する誘因となった。現代の企業は、この広範な制度的文脈に置くことができ、資本主義経済システムの発展における2つの段階のフェーズと特に結びついている。これら二つの段階はそれぞれ自由主義(liberal)と国家規制資本主義(state regulated capitalism)と呼ばれている。現在の形態でのマネジリアリズムが前面に出てきたのは、国家規制資本主義が展開している中でのことだった。デイビス(1996 305)の議論、すなわち、マネジリアリズムはその最新の様式において「世界をそのイメージの中で再形成し、近代国家を取り込み、また同時に近代国家に取り込まれている」という議論はこれを裏付けるものである。現代の企業の観点からは、マネジリアリズムは、所有者から職業的経営者へのシフトを意味するのであり、それは個人、社会、およびそれらの組織を資本の利益のために合法的にコントロールするためである。

マネジリアリズムは、さまざまな方法で特徴付けられている。例えば、Enteman(1993)は、マネジリアリズムを先進的な工業化社会の経済・社会・政治秩序がその上に載る国際的なイデオロギー潮流と説明し、そこから、社会は組織の経営管理を通じて行われた取引の合計と同等であるという不毛な考え方が生じているとする。この観点からすれば、社会制度は第一に経営管理の実践の機能であるに過ぎない。ドラッカー(1974:19)は、「経営管理は、その最初の次元として経済的側面を持つ」。デイビス(1996:305)は、マネジリアリズムは「牧歌的な古い官僚の世界」を押し流し、「すべての関係を単なる貨幣交換に還元してしまう」と主張する。マネジリアリズムはまた「経済的、社会的病害に対する有効な解決を提供する一連の信念と実践」として特徴付けられる(ポリット、1990:1)。

その技術的な機能に加えて、経営者は...社会のエリート階層であり、経済的資源として機能し、関連する権威体系を維持する。 (チャイルド、1969:13)

マネジリアリズムはまた、効率の観点からは活動自体には価値は内在しないという、操作的推論の形態としても説明される。ウェーバーの言う官僚的合理性の「鉄の檻」の概念はその道具的理性の論理によりますます強く支配される社会の潜在的な抑圧を説明する。彼は現代の官僚国家が手段と目的の推論を社会生活のより多くの領域へ拡張することを必要とすると予測した。この点でピュージー(1991:22)は次のように言っている。「効率の概念などに論争があるのではない。そうではなく、固有の問題は別のレベルにある。すなわち、何を費用とし何を便益として取り扱うかに関する基準や、社会的な知性の損失、抑制されてきた潜在的に建設的な言説の数と範囲に関する論争である。」ドラッカー(1994:193)は、「ポスト資本主義社会は求心力・・・すなわち、普遍的な共有された価値へのコミットメント、何が卓越的かに関する共通の概念を必要としている」と主張している。この新しい合理的な経済秩序においては、社会的な決定はマネジリアリズム内で定義され、その結果として、政策、政治、民主主義、倫理は消え失せる。これらにとってかわり、マネジリアリズムが、生産のフォード主義による生産概念のうちに予言された求心力として立ち現れている。要するに、マネジリアリズムのこれらの表現は、リオタール(1984)がメタ物語と呼んだ一つの超越的な理論を意味している。

重要なことは、これらの関係を通じてマネジリアリズムが、支配の様式として明示的にそれ自身を説明するのではなく、統治の様式として暗黙のものであり続けることである。ミシェル·フーコー(1991)は「Governmentality」という用語をもって、マネジリアリズムの別の特徴付けを与えている。この意味で、マネジリアリズムは「Governmentalityを目指す実践」の体制であり、メタ物語のように経済的中立性のレトリックに従った政治的に中立な技術なのではない。マネジリアリズムを説明するために「governmentality」を採用することは国家の理論による説明とは異なっている。そして、その説明は、フーコーによれば、現行の規範的な意味と内容を説明する上で「governmentalityを目指す実践」に対する知覚された内的制約が、正統性の原則と同等であるが故に正統的なのである(ゴードン、1991:8)。フーコーは国家がもはや本質的な意味を持っておらず、むしろ、政府行動の変化を表現する関数と見ている。「Governmentality」は、政治的主権と政治的服従の制度的な基礎に本質的に関係している。

このように「governmentality」の形態として新しいマネジリアリズムを説明することは、支配としてマネジリアリズムを捉える伝統的な説明を含むが、これに限定されるわけではない。経営者を特権階層として描写するコーポラティズム(多元主義)によるマネジリアリズムの特徴付けに加えて、「governmentality」は、個人が、自分自身の統治において自分自身を巻き込む方法に関する実践の系譜に連なっている。言い換えれば、合理的統治の一形態として、マネジリアリズムは専門知識の一形態である。ピュージーはフーコーに従い経済的合理主義による「他者」の抑制に関して適切な説明を行った。しかし、さらに踏み込んで、道徳技術としてのマネジリアリズムは言説を構成するばかりではなく、言説に一定の影響を作り出す、とも言える。これらの生産的な効果は、これまでの支配としてマネジリアリズムを捉える旧来の見方では無視されてきた。「エージェンシー」の存在を無視して支配としてマネジリアリズムの歪んだ像を提示している点で、そうした説明は不適当である。たとえ名目上の民主主義社会においても、全体性として支配を説明することは合理的なものではなく、そうであるが故に、「エージェンシー」が重要となる。「エージェンシー」は自己統治の意味を含んでいるため、統治方式としてより適切なマネジアリズムの説明は、フーコー(1988)の言うところの「自己の技術」を含むものとなるだろう。NPMはコーポラティズムの管理実践を含んでいるが、民主主義の下では、この組み合わせは、個人が自分自身で自分の統治に関与する方法の系譜で説明されなければならない。「governmentality」の一形態としての自己管理は支配の技術と「自己の技術」の交点で発生する。この様式ならば「エージェンシー」と支配の両方を説明することができる。この説明は、マネジリアリズムの新しい定式化であるが故に、「ニュー・マネジリアリズム」と呼ばれるべきであろう。

ニュー・マネジリアリズムは、公共サービスを生産関数や会社としてではなく統治の機構として説明する。ここで問われているものは経営の文化や構造というよりはむしろ統治の文化や構造の方である。ここで「統治(governance)」という言葉の意味するものは、ウェーバーが正統的な支配と呼んだものと、それを受ける者の自己支配との関係に関わる文化と構造のことである。ウェーバーが正統的な支配という言葉で表現したものは権威の構造によって正当化されるが、この権威の構造は、逆に、「法理的(legal-rational)」な権威によって法定化される。しかし、ニュー・マネジリアリズムを通じての統治はその正当性をウェーバーの言う法理的な権威の概念に負っているのではなく、むしろ市場での効率性にかかる合理性の形態に依拠している。このニュー・マネジリアリズムはNPMと同様に、依然として企業のマネジリアリズムをそのモデルとしているが、それはまた、日常生活の中における自己の実践からも生命を吹き込まれている。ここで新しいことは自己の技術の認識であり、これは各個人が自分の統治において自分自身を巻き込むために採用しているものなのである。

上の説明に反して、次のように言うことができるかもしれない。すなわち、この変更の多くは修辞的なものであって実質的なものではなく、教師は単純に従来の慣行を継続しつつ、彼らの行動を新しいレトリックで言い換えているだけである、と。しかし、レトリックはそれ自身の言説力を有するものであり、世界をこれまでと違うやり方で定義するように人々を仕向ける。言語を変えることは実践を変えることと同じであり、またその逆も真である。言語それ自体も社会的実践と解釈できる。教育もまた社会的慣行の影響の産物であり、その制度上のアクターたる教師は言語のない単独の生き物でも、従事する歴史的な実践から遊離したエージェントでもない。むしろ、言語と社会的実践の両者から教育が構成されている。この見方は、個人を社会の変化の中心的アクターやエージェントから排除するが、完全にエージェンシーの意義を捨て去るものではない。このことが提起する問題は、次の通りである。すなわち、個人はどの程度までマネジアリズムの強制から自由なのだろうか。 言い換えれば、個人はどの程度まで思考や行動の作り手としての中心的な地位を取り戻すことができるだろうか。逆説的ではあるが、マネジアリズムは自律的、個人主義的、透明性、自己に関心を持つ合理的な個人を中核的な前提としている。例えば、「責任を持つこと」、「自発的であること」のように。安定した自律的な個人を想定するにも関わらず、マネジアリズムは、個人が社会的なアクターとして存在しうる余地をまだ認めていない。マネジアリズムは結局、「誰が」マネジアリズムの要求される性能を保証するのかという疑問を我々に残す。もし、問題が本質的に、言語に関すると同じく実践に関する闘争であるならば、人々がその機関の中で発言し、行動したことが実際に重要となる。それ以前の民主的統治の下での支配的な見解は、教育機会の再分配と教育の排他性の改善を求めるものであった。その同じ人々が現在はマネジアリズムに関与している。「より良い」教育を求めて、彼らは(しぶしぶではあるが)ミッションステートメントを記述し、戦略的計画をつくり、評価フォームをつくり、効率性を測定する。その結果、教育のガバナンスはニュー・マネジリアリズムのもとで変質したのである。

支配の一形態としてのマネジリアリズムへの抵抗は、時には自律性を強化するものとして推奨される。しかし、マネジリアリズムはそれ自身を混沌、非合理性、無秩序、および不完全性に対する解毒剤として見ているため、そのような社会秩序の内部で自律性が合法的に争われるような余地は存在しない。マネジアリズムによる品質、効率、生産性の向上あるいは自己管理の定義は、それ特有のバージョンの「自律性」を構築してしまう。こうしたマネジアリズムによる自律性の勝手な構築物を望まない者は、マネジリアリズムの下では単に不合理なものとして片付けられてしまう。それは、マネジアリズムでは、これらの概念が「良い」ことは自明とされるのと同様である。抵抗の表明さえも、マネジリアリズムによって与えられた定義の中に既に予告されているのである。

先にある道は何か?

マネジリアリズム ― 少なくとも支配を説明しようとする伝統的観念としてのそれ ― は、正当性をもった道具立て(効率、品質などの言語を含む)を通じて、教育をその言説の中に包摂してしまう技術である。マネジアリズムによって定義された自律性の中で生きるのではなく生活それ自体の余地を増やすためには、単にマネジアリズムの言説によって与えられた定義内の中で抵抗の罠に陥ることのない批判が必要である。研究のための今後の方向性を、以下に簡単に概説する。

伝統的なマネジリアリズム​の説明の中では権力の問題が合法的な権威として隠されてしまうため、ニュー・マネジリアリズムの理解のためには権力の分析が不可欠である。分析することができる権力の形式は、フーコー(1978)の言う「バイオパワー」であり、これは政治的な対抗的需要を発生させるようなある種の二極化した技術を我々に提示する。それは最低限、「権力関係の戦略的な可逆性」の可能性を与える(フーコー、1982:221)。これがマネジリアリズムに対抗するための技術を提供するであろう。さらなる分析はポスト構造主義の観点から導入されるだろう。そこでは、教育を、意味を移し換え、後退させ、破砕し、不完全化させ、散乱し、延長するものとして再考できる可能性がある。マネジリアリズムの批判にはニーチェ流のアプローチもある。そこでは、マネジアリズムの実践の価値は(生活のためのメタファーとしての)生存と健康への貢献に基づいて評価され、抽象的な真実と合理性の概念への貢献に基づいては評価されない。ニーチェにとっては、「真実としての自己」という哲学的伝統に関する特定の冗長的なメタファーは物象化された実践という形で歴史的な遺物として現在に引き継がれてきた。ニュー・マネジリアリズムの中で問題となっているある種の実践は、その基盤にある、自律的、個人主義的、透明かつ自己に関心をもった、合理的な個人の仮定の上に予見されているのである。

権力、生命、支配、意味、合理性、真理などの概念に対するこの種の分析は、ニュー・マネジリアリズムの実際の価値を教育の統治として再評価する研究プロジェクトを示唆している。

じゃあ、またね。